長篠城 3.06

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Shinshiro-shi, Aichi 441-1634
Japan

About 長篠城

長篠城 長篠城 is a well known place listed as Landmark in Shinshiro-shi , Historical Place in Shinshiro-shi ,

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Details

長篠城(ながしのじょう)は、三河設楽郡長篠(愛知県新城市長篠)にあった日本の城。特に天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる。現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されている。概説この地域の交通の要衝の地にあった。寒狭川(現在「豊川」と呼ばれているもの)と大野川(現在の宇連川)が合流する場所に突き出した断崖絶壁の上にあり、(南や東西方向については)二つの川と断崖絶壁に守られた天然の要塞であった。(▽状に)突き出した断崖の近く(やや西側、寒狭川寄り)に本丸を置いている。長篠の戦いのころの構造について言うと、本丸のすぐ北側には堀が掘られ、その北側に二の丸、そのすぐ北側にまた堀が掘られていた。二の丸外側に三の丸、弾正曲輪などがあり、本丸の西側に服部曲輪があり、野牛曲輪なども築かれ、城域を北側を囲むように木柵が作られていた。川と断崖のおかげで南と東西の守りは堅かったが、北側は(台地状に)平地が広がっておりそのままでは守りが弱かったので、そちらにはしっかりとした堀が掘られていたのである。南や東西から見れば断崖絶壁上の城であるが、北側から見た姿をもってして「平城」に分類されることもある。歴史・沿革戦国時代永正5年(1508年)今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城。元成と、その子孫・長篠菅沼氏が居城とする。その後、徳川家康に服属するようになった。元亀2年(1571年)、武田信玄による三河侵攻の一端として、天野景貫によって攻められる。攻守双方の払った犠牲は大きかったが、陥落だけは免れた。その後、菅沼総領家・田峯菅沼氏から遣わされた使者の説得を受け、城主であった元成の直系玄孫・菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈した。