アルタル・デ・サクリフィシオス 1.38

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アルタル・デ・サクリフィシオス アルタル・デ・サクリフィシオス is a well known place listed as Region in -NA- ,

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アルタル・デ・サクリフィシオス は、グアテマラ中部、パシオン川流域にあるマヤ遺跡である。雨期に増水によって水面下になってしまうパシオン川の両岸を見下ろすパシオン南岸の小高い丘に立地する。アルタル・デ・サクリフィシオスの居住は、マヤ低地最古に属する先古典期中期のシェー相(紀元前900年頃)から始まり、古典期終末まで続く。アルタル・デ・サクリフィシオスの中核部は、A・B・Cの3つの建築グループで構成され、400平方メートルを超える範囲にひろがっている。アルタル・デ・サクリフィシオスの神殿ないし建築物の特徴は、通常基壇の上に神殿がたてられた場合に見られる持ち送り式アーチ(疑似アーチ)の建物の痕跡がみられないということである。そのため、神殿本体は、木造土壁茅葺きのような腐りやすい材質で建てられていたと考えられる。研究略史アルタル・デ・サクリフィシオスは、1883年にアルフレッド・モーズレー (Alfred Maudslay) によって記録上はじめて紹介された。モーズレーはヤシュチランの調査の帰途にパシオン川の河口付近で発見した遺跡について短い記録を残している。遺跡の大きさや位置、建造物、祭壇などの状況が一致することから、この遺跡がアルタル・デ・サクリフィシオスであると考えられている。テオベルト・マーラー (Teobert Maler) が1895年と1904年にパシオン川-ウスマシンタ川流域の探索を行い、1895年7月11日と1904年6月22日にこの遺跡を調査。巨大な円形の祭壇を発見し、「アルタル・デ・サクリフィシオス」(生贄の祭壇)と命名した。この祭壇は建造物A-IIプラットフォームC頂上に置かれた祭壇1である。1914年にシルヴヌス・グリスヴォルド・モーリー (Sylvanus Morley) が石碑や石彫などの金石学的な調査をおこない、石碑や石彫に関する最初の報告書を1937年と1938年にかけて刊行した。1959年から1964年にかけてレドヤード・スミス (A. Ledyard Smith) とゴードン・ウィリー (Gordon R. Willey) によるハーバード大学の調査隊が一般調査と図化、発掘調査を行い、1969年から1973年にかけて、次々に分冊として報告書を刊行した。おもなものは、リチャード・アダムス (Richard E.W. Adams) による土器に関するもの(1971年刊)、スミスによる建造物など遺構に関するもの(1972年刊)、ジョン・A. グラハム (John A. Graham) による碑文に関するもの(1972年刊)、ウィリーによる土器以外の遺物に関するもの(1972年刊)が挙げられる。