昭和39(1964)年、「浅草フランス座」を増築して作られた4階と5階に、「浅草演芸ホール」が生まれました。
当時の浅草には寄席がなく、落語定席が待望されていたなかでの開業でした。
東京オリンピックが開催されたこの年は、テレビ時代の幕開けともいえる年で、その後、娯楽の中心が劇場からテレビへと移っていきます。
しかし、いまでは伝説の名人ともいわれる、桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭円生が現役で高座に出て、古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭円楽がまだ若手だった当時、浅草演芸ホールにはしだいにお客様がいらっしゃるようになりました。
「爆笑王」と呼ばれた林家三平も、忙しいテレビ出演の合間を縫うようにして高座に出てくれるなど、多くの落語家からも愛される寄席だったのです。
昭和46(1971)年、軽演劇専門の劇場であった「東洋劇場」の閉館にともない、浅草演芸ホールは1階に移ります。
昭和53(1978)年からは、八代目雷門助六が継承していた伝統芸の「住吉踊り」を古今亭志ん朝が興行として復活させました。
この「住吉踊り」は浅草演芸ホールの夏の風物詩として今でもたくさんのお客様に親しまれています。
また昭和60(1985)年には、テレビ東京が「生放送お笑い名人会」として、月曜日の夜8時に浅草演芸ホールからの生中継を放送していました。
司会は、フリーになったばかりのみのもんたでした。