加佐登神社 3.15

加佐登町2010
Suzuka-shi, Mie 5130003
Japan

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加佐登神社(鈴鹿市加佐登町2010番地)
【御祭神】 日本武尊を主祭神として、伊勢の神宮にも祀られております天照大御神、外にも15の神様が一緒にお祀りされております。

【ご由緒】
 当社の御祭神日本武尊(倭建命とも書きます。ヤマトタケルノミコト)は、『古事記』『日本書紀』にも書かれている、大和の国(古代の日本国)を統一に導いた伝説の英雄です。(諸説ありますが、4〜5世紀、およそ今から千六百年くらい前のことと云われております)
 第十二代景行天皇の第二皇子として生まれた日本武尊は、若い頃から武勇にすぐれておりました。西国は九州の熊襲タケル・出雲タケルなどの豪族を従えてまわり、その後休む間も無く、東の蝦夷などの統一に向かわれました。その帰り道に、伊吹山の戦いで傷つき、病におかされてしまいます。 尊は動かない体を引きずって(多度〜桑名〜四日市〜鈴鹿へと進まれた、尊の足跡にいろいろな地名が残っております。この地の「三重」という名も日本武尊の話からきているのです。)、この能褒野の地にたどり着き、ここから遙かに父君のいる大和を望んでその短い生涯を終えられたと伝えられています。そのときわずか三十歳余りであったとされています。
  倭は 国のまほろば (大和は国の中でいちばん優秀な所だ) 
   たたなづく 青垣  (山々が重なりあって青い垣根のようだ)
    山隠れる 倭し美し (山々に囲まれている大和の国はほんとうに美しい)
 この歌は、尊がなくなられる前、鈴鹿の山々を眺めながら故郷を偲んだ歌、いわゆる「国偲の歌」とよばれるものです。
 日本武尊の亡くなられたところが、本殿北西にある「白鳥塚」(白鳥御陵)です。この白鳥塚のそばに、尊が亡くなる時に持っていた「笠」と「杖」をお祀りしたのが、加佐登神社の始まりと伝えられています。
 明治時代までは「御笠殿社」と呼ばれ、日本武尊が亡くなられるまで病気に悩まされていたことから、病気平癒によくきくと、古くから今に至るまで人々の篤い信仰があります。

 神社の境内地(約八町歩)は、紫つつじの名所として皆に親しまれ、一年を通じて四季折々の花木が楽しめます。また、里山づくりとして平成六年頃から氏子有志の手により西谷公園を整備し、現在では「みささぎの郷」として近隣の人々に愛されております。
 古代、日本武尊の死後、父である景行天皇が東国を回られた時に半年間この加佐登の地に滞在されたことから、ここは「高宮の里」と呼ばれるようになりました。付近には「綺宮跡」や「奉冠塚」「奉装塚」「車塚」などの旧い古跡が残っております。

【年間のお祭り】
 大祭 4月8日(日本武尊が亡くなられた日とされ、その御霊を慰めるお祭り。また、毎月8日が月次祭というお祭りで多くの参拝者があります。)
 例祭 10月8日 (秋祭り。8日前後の日曜日に神輿・山車が町内を練り歩きます。)
 天王祭 7月14日(夏の流行病いにかからないよう、無病息災・健康を祈願するお祭り)
 祈年祭 2月21日(その年の豊作を祈るお祭り)
 新嘗祭 11月30日(その年獲れた新米をお供えし、米の収穫を感謝するお祭り)

【白鳥塚古墳(白鳥御陵)について】(昭和12年11月10日、県史跡に指定)
 加佐登神社の北西二百メートルにある帆立貝式古墳で、古くから日本武尊の御陵として伝えられております。昔は、鵯塚・茶臼山・丸山などと呼ばれていました。江戸時代の有名な国学者である本居宣長、平田篤胤によって、平安時代の書物『延喜諸稜式』に記されるヤマトタケルノミコトのお墓「能褒野墓」であると考えられました。
平成17年の発掘調査によって、以前から円形とされておりました古墳の形が、実は帆立貝の形であることがわかりました。古墳の大きさは直径80m、幅64mです。