料理の祖神 高椅神社 2.52

高椅702
Oyama-shi, Tochigi 323-0154
Japan

About 料理の祖神 高椅神社

料理の祖神 高椅神社 料理の祖神 高椅神社 is a well known place listed as Landmark in Oyama-shi , Church/religious Organization in Oyama-shi ,

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=由緒=
 景行天皇の41年(西暦111年)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が御東征のおりに御旗を立てられ、國常立尊、天鏡尊、天萬尊の三柱の神を勧請して戦勝を祈願されたのが起源であると伝えられる。
 その後、天武天皇の12年(684年)に御祭神の後裔 高橋朝臣が神社を建て、氏祖 磐鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)を合わせて鎮座し、高椅神社と尊称するに至った。

 磐鹿六雁命は、景行天皇が御皇子日本武尊の御東征の戦跡を御巡視なされた際、鰹と蛤で膾を作り献上したところ、天皇が称賛し、膳大伴部を賜ったという。膳臣(天皇の料理番)として当地までお供をなされたが、老齢のためお許しを得てこの地に留まり、以後代々豪族としてこの地方を支配した。天武天皇の12年、朝廷より「高橋朝臣」を賜り代々これを襲名した。「高椅」の地名もこれよりとったという。

 後一條天皇の長元2年(1029年)、社域に井戸を掘ったところ大きな鯉が出た。これは奇異であるとして、時の神主が都に参上。その由を奏上したところ、誠に霊異なことと思し召され、「日本一社禁鯉宮」の勅額を賜った。以来氏子民は鯉を食うこと及び鯉絵のついた器物等の使用を禁じられたが、今日までこれを侵す者なく、鯉を食べないことは勿論、五月の鯉のぼりも立てない風習が現存している。当社が「鯉の明神さま」と親しまれているのはこの由緒によるもので、境内の南端にある神池には氏子、崇敬者の奉納した鯉が多数放流されている。

 結城代々の城主の崇敬殊に厚く政朝、政直、政勝、晴朝、秀康(徳川家康の次男)の各城主よりの寄進状、祈願文、修業留等20余通神納され現存する。殊に結城秀康公が越前福井へ国替えになった後も代々例度の代参を欠かすことなく続けられた。
 明治5年郷社となり、同10年7月県社となる。

=楼門=
 結城城主水野氏の寄進による再建とされ、宝暦4年(1754年)起工、明和7年(1770年)竣功、工事に際しては領内の人夫3,900余人が動員されたと伝えられる。
 三間一戸の楼門であるが、一階は扉を設けず、正面両脇間には随身をまつる。前後を唐破風とした入母屋造りで、屋根は茅葺きであったものを現在は銅板葺きに改めている。組物は三手先、二階に切目縁を張り出して高欄をまわす。すべて円柱で、中央の二本のみを通し柱とする。
 装飾彫刻も随所に見られ、木鼻を唐獅子の丸彫とするほか、欄間部分や妻飾りに透し彫が施されている。全体的に力強く安定感もあり、典型的な江戸中期の楼門である。