カップ・コルス 1.33

Cap Corse
20233

About カップ・コルス

カップ・コルス カップ・コルス is a well known place listed as Mountain in -NA- , Landmark & Historical Place in -NA- ,

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Details

カップ・コルス (Cap Corse、コルシカ語:Capicorsu)は、フランス、コルス島(コルシカ島)北端の半島。カップ・コルス住民は自らの住む土地を『島の中の島』(フランス語:l'île dans l'île、コルシカ語:l'Isula ind'è l'Isula)と呼ぶ。地理・気候カップ・コルスは、北へ突き出た岬の名称ではなく、半島全体の名称である。半島の付け根にあるバスティアから北のサン=フロランまで、南北40km、幅10kmから15kmの広さがある。半島の中央部を南北に山地が走る。南のピニュ山地は標高960m、北のカステル山地は540mである。カップ・コルス最高峰は標高1322mのシマ・ディ・エ・フォリーシエ(fr)である。カップ・コルスの海岸線はギザギザに入り組んだ複雑な形状で、数箇所の砂浜がある。地形は通常、海に向かって急に標高が低くなっている。カップ・コルスを一周する約110kmのD18道路を走ると、コーニスに似たパノラマが広がる。カップ・コルスの先端の岬には、海上からの攻撃を防ぐため建設されたジェノヴァ共和国時代の塔(fr)3つが集中してそびえる。カップ・コルスは地中海性気候である(ケッペンの気候区分ではCsa)。歴史カップ・コルスで発見された最も古い人類の骨格は、約6000年前のものである。古代ギリシャの地理学者プトレマイオスが、コルス島の北東端をhieron achron(聖なる半島)と記したのが最古の記録であり、ローマ人はラテン語でsacrum promontoriumと呼んだ 。カップ・コルスにはウァナシニ族が住み着き、テソロ、トーレ、ヴィッテラジュに砦を築いていた。紀元前7世紀、エトルリア人たちは鉄を作りワインや穀物を生産するウァナシニ族と交易を行っていた。紀元前545年、キュロス2世がポカイアを征服すると、3万人ものイオニア人が、エトルリア人とカルタゴ人との交易地である場所を奪おうとアレリア、そしてコルシカ全体を欲した。紀元前111年、ローマがウァナシニ族を駆逐し多くの平野を奪った。この時代にローマ人たちが多くの定住地を築いた。セネカはコルシカで亡命時代を過ごしたとされている。 ローマ支配下において、神殿が各地に建てられた。ローマ衰退後、強力な支配者に支配されることのなかったコルシカは、ヴァンダル族、ロンゴバルド族、海賊に襲撃され、長い不安と混沌の時代を送った。457年、コルシカを襲ったヴァンダル族はVicus Aurelianus(ロリアノ)を廃墟とした。534年、島は東ローマ帝国の侵攻を受けた。754年にロンゴバルド族の侵攻が起こり、タミナ(トミノ)が襲撃された。774年、カール大帝に敗北したロンゴバルド族はコルシカをローマ教皇ハドリアヌス1世へ割譲した。8世紀初めから、沿岸部をサラセン海賊が襲撃し始めた。734年、海賊はノンザを燃やし、824年にはネッビオを焦土にした。9世紀半ば、コルシカの実質的な領主、トスカーナ侯爵ボニファッチョ2世は海賊に襲われるコルシカを放棄した。住民2万人あまりがローマに逃れた。